関係者の証言によると、東京パフォーマンスドールの元リーダー、木原さとみは、2001年9月24日に後期TPDの衣装を担当していたデザイナーと結婚していたことがわかった。披露宴や二次会には当時のメンバーやスタッフが集まり、にぎやかでリーダーらしいパーティーが行われたとのこと。
木原さとみは90年代前半に活躍した東京パフォーマンスドールという、アイドルグループのリーダーだった。このグループには篠原涼子、穴井夕子、EAST END × YURIのボーカル、市井由理がいた。あまり知られていないが、研修生には仲間由紀恵も在籍していた。
東京パフォーマンスドールのライブ活動は1990年6月、原宿ルイードという、キャパ150人足らずの小さなライブハウスで始まった。私は90年の秋から毎週のように通いつめ、その後原宿クエストホール、日本青年館、東京厚生年金会館、日本武道館、横浜アリーナにまで大きくなっていく彼女たちのライブを250回ほど見た。
91年にファンによる空前のミニコミブームが起きたが、その直接のきっかけを作った張本人は私だ。そして、コアなアイドルファンの間で『外道』という称号(?)がその後流行ったがその元祖も実は私なのだ。私自身、ファンとして深くかかわっていた。
木原さとみは松田聖子フォロワーとして絶好のポジションにいた。
12歳で平尾昌晃ミュージックスクールの発表会に登場したときの衝撃は今も語り草になっている。14歳でオリジナル曲で長崎歌謡祭に出演し、デビュー目前だった。ところが、ある事情でデビューは実現せず、その後も何度かチャンスが訪れては消え、実際にデビューできたのは1990年の5月だった。
TPDが成長するとともにファンは増え、実現するなんて誰もが思っていなかった日本武道館公演まで勝ち取った。さすがのTPDジャンキーたちも感無量だった。メンバーもスタッフもファンもサクセスストーリーを実体験できた。
フロントメンバーはソロ活動を開始し、TPDも解散し、木原さとみは再び苦難の道を歩む。ラジオ番組のDJ、アニメ系ソングのリリース、そしてハイテクキネマでの再デビュー。音楽活動もままならず、デザイナーへの道に進むことになった。
ハイテクキネマのライブに行って彼女に声をかけたことうんぬんについては本誌9号~10号記事『アイドルとの正しい別れ方』に詳しく記してあるのでここで触れるつもりはないが、今あらためてその音楽を聞いてみるとなかなか質の高いことをやっていた。
彼女が結婚したことを報道することに対してやや気がひける部分もある。だが彼女のファンでその後を気にかけた人も多くいたはずだし、芸能人として一瞬でも最前線に近い場所にいた人なのでファン代表といってはおこがましいが、彼女の結婚を報告させていただく。
本誌のスタッフは12歳から30歳まで18年間、私は11年間ではあるが木原知美(本名)をなんらかの形で陰ながら応援してきただけに、彼女の結婚の知らせはちょっとした感慨を覚えるものなのである。
私がスクランブルエッグを創刊できたのは彼女からのパワーをたくさんもらったからにほかならない。いろんな意味で彼女にはとても感謝している。その彼女が結婚というひとつの幸せの形を手に入れたことを心からお祝いしたい。
(2003年7月5日追記:「スクランブルエッグのコラムを持って街に出よう」では木原さとみさんの2003年4月、ライブゲートでの歌の写真が掲載されています)
(2008年追記:木原さんはこの記事で書かれた方とは離婚しましたが、「あいのり」のプロデューサーと再婚されました)