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TPDが私にくれたもの

written by 岡田隆志

  Last Updated:2003/05/20
本記事を無断で複製・転載することを禁じます。
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2003年4月末に元東京パフォーマンスドール(以下TPD)のメンバー6人が「TPDアンプラグド 歌-Summit」というライブを行いました。まだ読んでいない方は取材レポートをどうぞ。独占取材ですので他のサイトでは決して見ることができません。

本コラムではレポートで書ききれなかったことを思い入れたっぷりに(苦笑)補足させていただきます。

食えないミュージシャンが出会ったアイドル

私は東京パフォーマンスドールに出会うまではジャズギタリストとして自らのユニットを率い、都内のライブハウスで定期的にライブを行っていました。

文章を書くのが好きだったせいもあり、あるアイドルミニコミ誌に投稿した原稿が掲載されたのをきっかけに、評論を書くだけでなく次第にイベントの現場に足を運ぶようになりました。

現場で知り合った人たちにほどなくして連れられていったのが原宿ルイードでおこなわれていたTPDの“ダンスサミット”だったのです。1990年10月27日のことでした。

そこで演じられている曲目は70年代後半のディスコナンバーのカバー曲が中心で、アイドルが歌って踊るノンストップの小1時間のショウに正直ショックを受けました。禁欲的な生活を送っていた私にとっては刺激が強すぎました。

12月に入り、クリスマスバージョン、新年からの新しいバージョンに変わる発表があったころ、すでに私は“ジャンキー”となっていて、私の生活の中心はミュージシャンからTPDの追っかけ(苦笑)へと次第に移行していったのです。

1991年のTPDとミニコミの楽しさ

当時スタンプカード制があり、10回通うと「ゴールド会員」になり、メンバーと生写真&握手という儀式がありました。その儀式に本人たちに何かプレゼントするものはないかと思い、アイドルサークルの会報誌の持ち回り編集を担当し、TPD特集を組むことにしました。

本人やスタッフたちの興味しんしんな様子だったのがおもしろかったので、それからTPD専門ミニコミ誌を発行することにしたのです。

その名は「週刊TPD」といい、12号まで出たのですが、最後のほうは150人のキャパに対し100部もファンの手元に行き渡るような巨大な(笑)メディアになっていました。メディアを通してある意味世論形成ができるようになってしまったため、その影響力の大きさに自信が持てず休刊することにしました。91年6月のことでした。

「週刊TPD」休刊後もメンバー用、スタッフ用などの裏バージョンを発行しつつ、個人メンバー用ミニコミ、また手作り製本による72ページの単行本などを作り、メンバー、スタッフ、ファンから喜ばれることでメディアを作るノウハウや楽しさを十分教えてもらったのです。

TPDはといいますと、原宿ルイードを基点としながら次第に大きなホールへ、そして地方公演へと活動の幅を広げます。オールドファンにとってはTPDは91年がいちばん楽しかった時期でした。あとから見はじめた人には申し訳ないですが、客として楽しむなら断じて91年が最高の年でした。

夢がかなうとき

TPDにとって何をもって夢がかなったかというのも難しい話ですが、私たちファンから見れば1993年8月の武道館公演が成功したことをもってひとつの区切りという意見が多いでしょう。私自身、100人に満たない会場での内容から武道館を満杯にする図式などまったく想像もつきませんでしたが、でも実際にそうなってしまったことに誰もが素直に感動できました。

メンバーはメンバーとしての夢を、ファンはファンとしての夢を“武道館公演”としてそれぞれかなえることができました。ただ、スタッフサイドから見ればまだ成功とはいえませんでした。1994年に篠原涼子が「愛しさとせつなさと心強さと」が大ヒットし、紅白に出るまで、投下した資本が回収されることはなかったようです。

とにもかくにも私は、アイドルを応援するという行為がこういった形で報われる楽しさを体験することができたのです。

伝えることの大切さ

彼女らがまだ原宿ルイードでダンスサミットを毎週(春休み・夏休み・冬休みは毎日)おこなっていたとき、私は、ライブ会場で配るアンケート用紙にメンバーたちを激励する意味で、ミュージシャンとしての立場から、歌の技術的な注文やステージ上での気持ちのもっていきかたなどを毎回ぎっしり書き込んでいました。

アンケートを読んだ彼女たちは、その方法を次回のライブで実行してくれました。それを受けてまた次の注文を出すとまたクリアして……といったように、彼女らと直接話すことなしに、アンケートとステージでコミュニケーションが取れていたのです。今の時代ならホームページ、掲示板、電子メールなどで直接コミュニケーションを取ろうと思えばできますが、アイドルとファンのコミュニケーションは今ほど簡単ではなかった時代の話です。

もしあのときアンケートに何も書かずにただ自分が惚けるためだけに通っていたとしたら今の自分はありません。そしてあのときアンケートに書かれた内容を彼女たちが読まずに実行しなかったとしても今の私はないのです。これには多少運命的なものを感じますし、その後も実際に私は“アンケート”というコミュニケーションツールによってほかの歌手たちともコミュニケーションができるようになっていました。

TPDのメンバーたちが向上心を持ってステージに取り組んでくれていたからこそ、今の私があるわけで、それはいくら感謝しても足りないほどだと思っています。

応援する限界

TPDは私にファンとして応援する限界も教えてくれました。

ファンというのはそもそも無責任なもので、無責任だからこそファンをやっていられるわけです。ほかの子が好きになれば、新しく好きになった子のファンになればいい。それで全然問題ないわけです。

ところが、狭い世界でグループもののファンをやっていると、○○ちゃんから○○ちゃんのファンにくら替えするとタレント側にもばれますし、信用も失います。

また、マイナーな事務所に所属する向上心が高いタレント、一世を風靡した元メジャーなタレントなどに対し、“応援する”といっても、ファンとしてできる最大限のことを一生懸命やっていればタレントが幸せになれるのかというと、ちっとも幸せになれないことも厳然とした事実としてあるのです。

今、30代以上のコアなアイドルマニアの人たちは、このようなことはみな経験済みで、それぞれの解決方法を見つけ、割り切った楽しみ方を会得しています。

私の場合は、最終的に無責任なファンという立場にいる限り、応援することに限界があることを何度も経験したため、もう少し近い立場で、もう少し責任のある立場で応援したいと思うようになりました。その結果、「スクランブルエッグ」を創刊し、徐々にではありますが、業界にも影響力を持てるようになり、自分たちが推すタレントのブレイクに少しずつ役に立てるところまできました。

それもこれもTPDでの楽しくも苦い経験があるからなのです。

大藤史の福音

1999年、TPD元メンバーの大藤史はソロでのライブ活動を開始しました。

大藤史は1991年の秋のライブからの参加ですから私よりTPD歴が浅い(笑)のですが、それも幸いしてか、彼女のTPDに対する愛情というのは非常にストレートです。ライブ中のMCでもTPDのことやTPD時代のことを楽しかった思い出として語ってくれるし、その証拠にTPDナンバーをライブに取り入れ、オールドファンへのサービスを欠かしたことはありません。

OLをしながら彼女がこうしてライブを続けられること、そしてTPDのことを愛してくれること、そして昔と変わらない美しい声で新しい曲を産み出してくれること、それらすべてがTPDのオールドファンにとってたまらないご褒美のように思えてくるのです。

続けることはどれだけ大切かということも教えてくれるし、新しいファンへのサービスも忘れない。今回の「TPDアンプラグド 歌-Summit」は、彼女なしではありえなかった企画だったことも忘れてはならない大切なことでしょう。まさに10年後にやってきた福音なのです。

現実に引き戻された瞬間

大藤史は先日のTPDアンプラグドライブのときに、当時の懐かしいお客さんに向かってこう話しかけました。

「このなかには社長になった方もおられるでしょう」

はたしてこの10年で劇的に人生をプラスの方向に変え、社長になった人があの会場にいたのでしょうか。このなにげない問いかけはいろんな意味で私を刺激してくれました。

もとから社長だった人を除けば、“ファン稼業”から離れられない人はたぶん社長になれないと思います。これは先にあげた「応援の限界」を「出世の限界」「勤め人の限界」などと置き換えるとなんとなくわかると思いますが、こういった限界を超えない限り、新しい未来は起こらない、というのが最近の私の考えです。

今、モーニング娘。を一生懸命追っかけている方は、いつかファンとしての限界を知るときがくると思いますが、そのときにどう身を処していくかよく考えたほうがいいでしょう。

工夫すること、続けること

打ち上げの席で、お客さんのアンケートを少し見させていただいたのですが、そのときに急に現実に戻りました。

「あのときもっと読みやすい字で要点を押さえて書けばもっと効果があがっただろうに……」

10年経ったあとのまつりです。Recommended Eggs発掘オーディションに応募する人の自己PRを思い出してしまいました。「もっと要点を押さえて受かりやすい書き方があるんだけどな……」と審査する立場になった今、言えることなのです。

「あのとき木原さとみに歌ってもらうために曲を書いたんだっけ。そしたらディレクターの人が私の書いた譜面をわざわざ打ち込んでくれて感想まで送ってくれたんだよな。なんであのときもっと作曲を続けなかったんだろう……」

続けていれば必ずチャンスは巡ってくるっていうのに……これも10年経った今、はっきり言えることなのです。

アンケートのなかから汚い字で書かれた私のアンケート用紙が見つかりました。「こんな汚い字じゃ読んでくれない」と思ったので、そのときの気持ちを今ここに残しておきます。

「TPDはいろんなことを私に教えてくれました。私の人生はTPDのおかげでずいぶん狂ってしまったけれど、TPDがあったからこそ今の私があるんです。私はTPDファンであったことを誇りに思っています。ありがとう」

さて、これから景気づけに「Cha-Dance Party」を引っ張り出して聴いてみるとしましょうか。

cover That’s The Revue
エピックレコード
3,465円(税込)
DVD ESBL-2136
2003年12月3日
※1993年12月1日に発売された、「That's The Revue1」と「That's The Revue2」を2 in 1にて初DVD化。トールケース仕様

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